517回 (2015.3.14

手 束 妙 絹 尼  〜お四国遍路みちの女良寛 

青山 淳平 (作家)

 

 北条市(当時)の北辺の山すそにある鎌大師堂には、昭和五十四年の暮れに熱海からやってきた老女が棲みついていた。お遍路のなれの果てだと自称するその堂守は手束妙絹といい、十数回も女ひとりで歩き遍路を行じ、齢七十を越えて遍路みちの堂守になった尼僧である。「遍路行は擬死再生の旅」ともいう。歩き遍路は千五百キロの道程をおよそ四十日かけて巡る。手束は堂守になる前、還暦を越えてから十五年間、行き倒れも覚悟し白菊会に入ると毎年、ひとり歩きの遍路をつづけている。手束が死んだ気で歩き遍路に求めたものは何だったのか。本稿ではこのことに迫ってみたい。

 

彼女の来歴は、およそ次の通りである。

 

 手束妙絹は明治四十二年、八人兄弟の五番目として北海道砂川市に生まれた。父は静岡県清水市の出身で、東京商業学校を卒業し、三井物産に勤める商社員だった。八人の子を産み育てた母は、漢学者を父にもち長野で育った。兄弟は皆勉強が好きで、二人の兄は一高から帝大へ進学している。手束が十歳の春、八人の子を残して母が死んだ。四十を超えて男盛りだった父は、後妻を娶らずひとりを通して生きた。この父のいさぎよい生き方は手束に強い影響を与えた。彼女は女学校卒業後、父の勧めで昭和五年の春、名古屋の老舗の商家に嫁ぐ。

 

夫は根っからの商人で、利にさとく、口が巧みで節操がない。手束はすぐに夫の人柄がいやになり、別れようと決心したときには、子どもが腹にいた。手束は好きになれない男の子種でさえも宿し、好悪の気持ちとは別に産みたい思いが日ごとにつのる女の性を呪った。悩んだ末、彼女は母としてだけ生き、夫婦生活を断った。夫は世間体を取り、手束の身体に執着を示さなくなった。手束は傍目には裕福な商家の奥様役を演じ、心ひそかに別れる機会を待った。

 

 夫が召集されて戦場へ赴き、名古屋に建物疎開令が出たのを機に手束は婚家の反対を押し切って家を出、山村の蚕室に身を寄せた。終戦後、子どもを手放すことを条件に夫と別れひとり身になると、県立農場の炊事婦として身を粉にして働いた。実家からは、結構な再婚話がもちこまれ、相手は手束に執心したが、結婚は考えられなかった。

 

 岡崎市にある紡績工場の女子従業員宿舎の寮母をしていた手束は、会社の勧めで昭和三十五年から一年半余り、西パキスタンのカラチでハウスマネージャーとして働いた。この炎熱の、厳しい階級社会の国で、手束はさまざまな人たちと知り合い、人間や人生への思いをいっそう深めていく。彼女は好んで砂漠へ出かけ、来る日も来る日も青いパンジャブの空から、その青さが失せない間に月が昇るのを見つめた。血のように紅い月を眺めながら物思いにかられるのだった。

 

 昭和四十年、手束は勤めをやめ、二十五年間の貯えで、熱海にある中古のマンションの一室を買った。近在の寮や旅館へお茶と華道の出稽古をし、食べ料にした。やっとつかんだ何不自由のない暮らしが始まった。しかし、傍目に満ち足りた生活は長続きしなかった。手束は、毎年春の訪れとともに四国へ渡り、蜜柑の花の匂う初夏までお四国の空を歩くようになった。しだいに熱海の生活は遍路行のためにあるようになり、彼女は仏教の勉強も始め、遍路を始めて二年後に永平寺で得度し、在家の尼僧となった。

 

 その頃、鎌大師堂には、妻子を捨て、甲府から風呂敷包み一つでお堂に移り住んできた行戒という僧侶がいた。行戒は自ら山頭火だとうそぶく世捨て人だった。遍路行で行戒と親しく話を交わすようになった手束は、この四国の空のどこかに自分ひとりをおいてくれるお堂がないものか、と行戒に頼むようになった。「あんたに、すべてが捨てられるか」と、行戒は手束をためすように応えるばかりであったが、時がながれ、行戒は養老院に入ると、集落の自治会へ熱海に住む手束のことを紹介した。手束は一切を処分し、茶道具だけもって四国へ渡ってきた。

 

 手束が堂守となって十五年の月日が経った平成五年の秋、私は鎌大師堂を訪ね、一週間ほどかけて話を訊いた。数多くの人たちが手束のもとを訪れ、彼女がお点前した茶を飲み、語り、時には涙し、再会を誓って旅立っている。宿を借りようとお堂に立ち寄る人、大師松の下にテントを張らせて欲しいという学生遍路、三日前に刑務所を出たばかりだとすごむ男にも寝床を用意し、朝一汁一菜をわけあうと、別人のようになり、故郷に帰ってやり直すのだと神妙な顔でお堂を後にする。泣きにくる人には一緒に泣いてあげ、涙で互いの心を洗って送り出す。彼女にとってどんなお接待も修行なのである。

 

 なかでも六年目の昭和六十年十二月、東京からやってきたある初老の開業医との出会いと別れは、手束に忘れることのできないものとなった。

医師は永いこと家庭を顧みなかった罪滅ぼしに妻を連れ車で春の大和路をまわった。喜ぶ妻が愛おしく、京都へ足をのばす途上、事故に会い妻は即死した。身動きもできない重傷の医師は、ベッドの窓から妻を載せた寝台車が斎場へ行くのを見送り、「おれもすぐ行くから、待っていろ」と声をかけた。それから半年、生きのびた医師は、死んだ妻が不憫でならない。医師は手束が自らの半生を書き綴った『風の足あと』を読み、遍路行にある「捨身の充実」を直接手束に問い、「自分を捨て、死んだ妻とお四国の空の下を歩いてみたい」といった。「あなたは捨身のすがたを私に求めておられるが、私はお遍路も尼も半端者です」と手束は応え、自らの思いを医師に語った。ひとり歩いてお遍路をすると、自分が自然と一体になった喜びがある。自分がうれしいと山も空も道端の草もみんなうれしい。自分が悲しいと一木一草までが悲しい。そんな時、自分も野山も草花も生きとし生けるものみんな仏なのだという思いがある。仏教とは何か、仏とは何かと聞かれても自分には何も答えられない。国宝の仏像も野の地蔵も自分には等しく仏であり、仏教である。お遍路は捨てる旅であり、まためぐり会う旅でもある。捨てきって生死一如の境地にいたった時、人は新たな自分と出合うのだ…。じっと耳を傾けていた医師は、「遍路に出れば、仏に出会えますか」と訊いた。「ええ、もちろん出会えますとも」と手束は応え、ただ冬の遍路行は大変であるから春まで待つように、と医師を諌めた。

 

平成六年になって、夏の訪れとともに大師松が枯れ始めた。枯れきってしまわない内に伐採することになり、樹齢六百年の巨木に五百七十万円の値がついた。それから二か月が過ぎた冬至の夕暮れ、手束は集めていた大師松の落葉で風呂を沸かした。湯に身体をひたすと、積み重ねてきた歳月の思い出が脳裏をよぎった。人生の路上で多くの哀歓にめぐりあった。それは真のようでもあり夢のようでもある。ふと句が浮かんだ。

 

歳月は慈悲とぞ柚子湯にあごをうめ

 

翌年の早春、手束は医師の消息を知った。阿波から土佐へと冬のお四国を巡り歩いた医師は、足摺岬にある三十八番札所の金剛福寺から岬の灯台に至る椿並木の小道に倒れていたのである。死因は心臓麻痺であった。

「人は相会うために生まれ、別れるために生まれる」

 捨てきる人生を豊かに実らせてきた手束妙絹が、鎌大師堂を去りゆく医師の背に合掌し、念じた言葉である。